無責任もたまには役立つしあえて無責任(放任)を装う必要もある
状況や立場によっては見て見ぬふりをしなければならない。今回は投げかけるように書きます。
目次
責任ある立場であれば放任しつつ悪い結果の後始末はする。良い結果の時は成果を認め評価する。
当たり前だと言われればそれまでです。
では実際にそうできているか、自らを振り返っていきましょう。
部下がいる立場であれば、優秀な部下の成果を横取りしてさも自分が成し得たかのように、世渡り上手な卑怯な言動をしていませんか?
放任されている立場であれば、その自由さを逆手に取り、何も言われないから手を抜いて何も考えずにただただ、ダラダラ過ごしていませんか?
無責任と放任は意味が違う
タイトルでは分かりやすく表現しましたが、もちろん意味は全く違います。
辞書的な意味合いでの解釈では無いことを事前にご理解頂きつつ、
「無責任の意味」「放任の意味」あなたはどう定義できますか?
無責任とは自分大好き・保守的退化生物
無責任な人は世渡り上手です。
自分の責任になりそうになった事、あるいは明らかに自らの失態によって巻き起こした事実であるにもかかわらず、その結果を拡大解釈させながら対外的なデータを用いて、さも世の中がそうなのだからコレは責任を取れません、むしろ当然です。
みたいにしてきます。
見る人が見れば一発で見抜けます。
そして信用はなくなります。誰もこんな奴についていきたいとは思わないでしょう。
尊敬なんてもってのほか、むしろそういう事を見抜いている方を尊敬してもらいたいものです。
しかし残念なことに、こういう事を見抜ける人が少ないのもまた事実ですし、見抜けない人はそれが当たり前と思ってしまう。
もしくは小賢しいなと、なんとなく感じて敵に回さず肯定しておけば好かれるから自分には有利になるかも。
どちらも責任重大だし、小さな世界で低い天井に頭をぶつけながらそれ以上成長出来ない環境で定年を迎えればそれはそれでそういう人種は幸せなのかもしれないので、否定はしませんが。
言うまでもありませんが、
無責任=責任重大
ってことです。
放任とは見て見ぬふりをできるか 軌道修正する小さな助言ができるか~
相手の力を見据えて、見越した上で任せておいたほうが結果は予想を超えるであろうし、その大まかな道筋を示したから具体的な部分を熟考して実行させる環境を整える。
例えば、
大陸を発見するべく航海時代の船長は大きな道筋(進路)を示し、船員がコンパスや星やなどで具体的にどの方向に進んでいるかを逐一確認しながら、帆を操作して船長の示した通りに船が進むように作業した。
しかし、全てが上手く行くわけがないので全く目的とする陸地に辿りつけないとなると、船員の操作ミスなどを考慮しても明らかに責任は船長にあると考えるでしょう。
それは船員を人選した船長、方向を指し示した船長、危機的状況での判断と指示、適切な準備計画を勧められたかが問題になる。
その準備段階で最大限準備した上での結果であるのだから全ての責任が放任主義には結果として必ずついてきます。
そして想定通りの結果になったのであれば、それを実践した船員の手柄であり船長の先見性という別分野での成果として捉えられるでしょう。
放任されることで伸びる可能性が生まれる
あくまでも可能性であり、それは被放任者次第。
方向性を示されて上で、その結果は当然通過しそれ以上になるにはどうするかを考え、実行し、失敗をしながら成功へと進められるか。
これくらいやれば妥当かな。
最悪それは無理な話しだからある程度やって対外的なデータを用いて論破しておけばいいや。
となってしまうと成長は見込めないし運良くその立場になってしまった時には、先ほど書いた通り、部下の成果は俺がいたからだ。失敗したら部下が無能だからだ。
これじゃあジャイアンでしょ。最悪なジャイアン。
あなたはジャイアンになりたいですか?
なりたいなら無理には止めません。
でも他人に迷惑をかけないニートジャイアンになってずっーと独り善がりしててくださいな。
放任された環境から甘んじず自らをコントロール
自分に厳しいと他人にも厳しくなります。
それは何故そこで妥協したり、甘えが生まれるか理解できないからでしょう。
わかります。わかるんですが、あなたはそうかもしれないけど他人が必ずしもそうではないし、大概は甘ったれです。
自分が可愛いし、本能が自分を守るのですからそこは百歩も千歩譲りましょう。
だからこそ、そんな事は想定内で踏まえてるから軌道修正するための助言をポロッとしてあげればいい。
それでも修正できないのであればそれは見込み違い、自分の判断ミスであり全ての責任を負わなければならない腹づもりが当然合ったのですから。
それすらも自らをコントロールしなければならないし、できて当然なポジションにある頃でしょう。
本能を捨てようとする意思があるかで責任感が生まれる
とっさに身を屈めたりするように、自らを守る防衛本能が備わっています。
それは身体に何か危害が加わりそうな、命を脅かされるような瞬間、反応としてでるものであり、人間社会の中で自らの過ちを責任転嫁する為に備わっているものではないということ。
それすらを理解できる人間だからこそ、失態に対する防衛本能はコントロールしなければならない。それができるからこそ人間であり文明を発展させてこれた生物の一員なのです。
常に自分に過ちが無かったか、自己否定しそこには今までのプライドなどを介在させず、現実をそのまま自分の中に取り込められるよう、それが自らの失態だったと認められるよう、日々真剣勝負していきます。